神楽やその関連項目を豊富に収録.
岩手県花巻市大迫町岳と大償集落に伝わる神楽を総称して早池峰神楽と呼ぶ.この名称は1976年(昭和51)に岳神楽と大償神楽が国の重要無形民俗文化財に指定されたことによる.・・・・・・・・
・・・・・・・・早池峰神楽は、霜月の時期に岳と大償の人々が1年交代で早池峰山東麓の村々を獅子頭を権現様を奉じて村の家々を廻り,夜は民家で神楽を演じるのが本来である.これを「通り神楽」あるいは「廻り神楽」と称し,・・・・・・・・
早池峰神楽は山伏神楽に分類される.修験道の影響を残した神楽である.山伏神楽の名前は,1931年(昭和6)に本田安次が岳神楽と大償神楽を見学した以降の命名による.・・・・・・・・
・・・・・・・・山陰家は中世期まで早池峰山の祭祀権を持っていたが,近世期に南部氏による領内支配が完成すると,その祭祀から外された.政治的な影響力は弱くなったが,山陰一族の多くは文化元年(1804)まで修験道に所属していた.・・・・・・・・
早池峰神楽(神田より子撮影)
早池峰神楽は家々を権現様と称する獅子頭を廻して歩く権現舞と,家の一間に幕を張り,そこを舞処として一晩神楽を演じる部分の二部構成となっている.・・・・・・・・
・・・・・・・・所作では場所によって「ジンバイ・ケンバイ」とも言う六三の足踏みがあり,舞手は様々な印契を結ぶ.神舞は荒舞とも呼ばれる,踏み鎮めを主とする激しい舞振りの諷誦,龍天,注連切りがある.・・・・・・・・
楽器は大型の締め太鼓(1)・笛(1)・銅拍子(1).太鼓の奏者を銅取りと呼ぶ.締め太鼓は2本の細長い撥で打ち,弾むようなリズム感を作る.・・・・・・・・
本田安次は1932年(昭和7)3月に仙台放送局の賛助を得て,大償神楽の実演を仙台で行った.折口信夫が早池峰を訪れたのは34年(昭和9)だった.早池峰神楽の研究は本田安次によって始められ,そのイベント化もこの頃から始まったと言えよう.昭和50年代に入ると早稲田銅鑼魔館が早池峰神楽との交流を始め,・・・・・・・・
・・・・・・・・大迫町役場では昭和60年代から毎年「早池峰神楽鑑賞ツアー」を企画している.これは7月31日,8月1日の早池峰神社の大祭とは別の町独自の企画であり,94年(平成6)は60人近くが参加した.・・・・・・・・
(朝倉書店「祭・芸能・行事大辞典」p1446-1448より抜粋)
旧石見国の一部(島根県邑智郡・浜田市・江津市)で霜月頃に行われる大元神(備後の荒神や周防の河内神と同類の祖神の様相をもつ自然神)の式年(4年・5年・7年・13年)の神楽祭祀.・・・・・・・・
・・・・・・・・四方堅・太鼓口・潮祓・清湯立・荒神祭・山勧請(以上は佐陀神能の七座に当たる)の神事的採物舞と神能(石見神楽で構成された面神楽)を行い,夜明け頃から大元神楽式が行われる.・・・・・・・・
「御綱祭」(大元神楽,江津市桜江町江尾)(著者撮影)
(朝倉書店「祭・芸能・行事大辞典」p273より抜粋)
中世から近世にかけて山伏が伝えたとされる修験者の呪法の影響を残した神楽は,中国地方,九州地方など各地にあるが,岩手県を中心とした旧南部藩領に分布するものを指すことが多い.・・・・・・・・
・・・・・・・・その形式には世阿弥による大成以前の猿楽能の形式を残していることから芸能史的にも注目されている.三陸沿岸の黒森神楽は現在でも廻り神楽をして歩いているが,早池峰神楽などでは,神社の祭礼や正月の舞初めなどがおもな上演の機会となっている.
(朝倉書店「祭・芸能・行事大辞典」p1799-1800より抜粋)
囃子はもともと映えるようにする,その人のもつ能力が十分に,・・・・・・・・「はやす」の語が名詞化したもの.・・・・・・・・第二次世界大戦後,現代邦楽が器楽中心に発達したのは,器楽を囃子の役割りから解放し,器楽独自の表現を求めた運動であったと考えることができよう.・・・・・・・・
古典芸能では囃子の役割が確立したのは能からである.能では能管,大鼓,小鼓,太鼓の4種の楽器で囃すが,その楽器の演奏の部分を囃子と言い,それを演奏する人々を囃子方と言う.なおその4種の楽器を四拍子と言う.・・・・・・・・・
(朝倉書店「祭・芸能・行事大辞典」p1443-1444より抜粋)
「祭」1000項目 「芸能」1050項目 「行事」1800項目 「音楽」800項目「イベント」850項目 分類別索引付
[出雲神楽][伊勢太神楽][江戸の里神楽][神歌][権現舞][祭祀][式舞][高千穂の夜神楽][土佐の神楽][保呂羽山の霜月神楽][法印神楽][巫女神楽][湯立神楽][湯立神事]等も収録